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レオパルド・ゲッコーのお散歩写真

その辺の道ばたで撮ったお散歩マクロ写真など・・・

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「表現」とは何か。 

Spring has come
(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)

いきなり大上段なタイトルで恐縮ですが、哲学的な話や深遠な話をしたいわけではなくて、意味がわかりきった言葉のように思える「表現」というものをちょっと考えてみたいという話です。

写真における表現とは何でしょうか。
ファインダーを通して自分で感じたもの、つまり自分の内面を写真にして外に出すことであるとは言えるでしょう。では、それを外に出せればそれで終わりなのでしょうか。
この問に対する答えは、ジョン・レノンの奥さんとしても知られる前衛芸術家のオノ・ヨーコさんのQ&Aがとてもわかりやすいので引用させていただきます。

Q「今までの芸術活動において、人に認められたいと思ったことはありますか?」
A「芸術家にとっては、自分の作品が人と話す「言葉」なのです。だから、作品で何か言っても聴いてくれる人がいなければ、よく駅なんかで立って、独り言を言っている人と同じになります。ヨーコ」

つまり、写真で言うならば、撮ったものをただポンポンと並べた見せっ放しではダメということですね。それではヨーコさんのおっしゃるように、駅でブツブツ独り言を言っている人と同じ事でしょう。どうやったら自分の感動を人と分かち合うことができるのかということを考えて、自分の作品を主観的なだけでなく客観的にも見て練り上げた上で出すのが表現者としての努めと言えるのではないかと思います。
これは写真だけでなく、ブログやTwitterなどでも同じ事だろうと思います。自分の言いたいことしか言わないのであればそれはどこまでいっても単なる独り言であって、表現とは呼べないでしょう。表現、つまり表に現す以上は、現す相手というものがあるわけです。その相手を無視するのであればわざわざ表に現す意味がありませんから、駅まで行ってブツブツ独り言を言うのではなくて自分の部屋でブツブツ言っていれば良いわけです。表現とは表現者の思いを一方的に垂れ流すのではなく、一種のコミュニケーションであるべきだろうと思います。

これはプロならば当たり前のことでしょうが、アマチュアであってもやはり同じことだろうと思います。
自分の部屋でブツブツ言うのではなくて外の世界に出るのであれば、表現者ということではプロもアマも同じ土俵に立っているわけです。自分の部屋でブツブツ言っているようなことを人にも聞いてもらいたいというのは少々虫が良すぎるのではないかなと。外に向かって何かを言いたいのであれば、「表現者」であるための最低限の努力はするべきだろうと思います。

写真においてその努力はどういうものかと考えれば、自分が感じた感動などをどうやったら人と共有出来るのかを考慮に入れることだろうと思います。どこに感動したのかということを自分の中で整理して、そのポイントを端的に的確につかむこと。つかんだものを過不足なく写真としての形にすること。
それがきっちりできれば、「表現」としての良い写真が得られるのだろうと思います。

Posted on 2012/04/07 Sat. 00:20 [edit]

thread: お散歩写真

janre 写真

tag: ひとりごと  写真 

コメント

初コメです。昨秋あたりから素晴らしい作品の数々、およびツイートを拝見させていただいていました。

もし私の勘違いであったら平にお許しいただきたいのですが、「撮ったものをただポンポンと並べた」だけ、つまりレオパルド・ゲッコーさんご自身の“正義”に合致しない写真の氾濫に苛立っているから、本記事という形でそれを“表現”されたのではないかと。
(端的に言えば「努力は善」「無努力は悪」という観念)

不躾を承知でもう少し踏み込むなら、レオパルド・ゲッコーさんがご自分で自身に課した「型」に囚われていない、そうしたある意味「自由奔放」な写真郡に、実は嫉妬されている、ということはないでしょうか。
私自身においても自分のブログで、写真ジャンルではないですが、思い当たる(:こういった論旨の記事を書いた)ことが多々ありましたので、ちょっと引っかかった次第です。


私個人の考えですが、「表現」とは、その字が示すとおり、「表に現す」。
プロとして飯を食う、アマでも兎に角アクセスを増やしたいという目的ありきなら、仰ることに全く異論を挟む余地はないのですが、不特定多数に自分を認めてもらいたいのではなく、自分の“波長”に合う人だけ見てくれればいいと割り切れているのであれば、芸術家などとの気負いは全くないのであれば、ただ「表に現す」だけでも何も問題はないと思っています。

ですから、偉そうな物言いですが、「努力の結果」の写真。「ただ楽しいから」の写真。
いまの私はどちらも否定しなくなりました(見る見ないはあります)。

最もこのコメントも、同じマイクロフォーサーズ使いの私が逆立ちしても適わない、素晴らしい作品群を生み出されているレオパルド・ゲッコーさんに、「駅でブツブツ独り言を言っている者」が嫉妬している、という可能性は否定しません^^;;
(少なくとも私が知る限り、レオパルド・ゲッコーさんは、マイクロフォーサーズ使いの中では頭一つ以上抜きん出た表現者だと思っています)


こういう意見は投稿しづらいのですが、あくまでも私の個人的な感想ですので、適当に読み流してください。

信ちゃん #5h1vJcFA | URL
04/08 14:44 | edit

信ちゃんさん、コメントありがとうございます。
今回の記事は自分で書いていてもちょっとトゲを感じるといいますか、コメントもしにくい記事だなあと思っていましたので、コメントをいただけてとても嬉しいです。

実はこれはずっと前から一度触れたいテーマだと考えていました。
自分が撮ったものをただポンポンと見せるだけで良いのだろうかというのは写真を撮り始めてから自分の中でずっと疑問に感じていたことなのですが、記事で触れたオノ・ヨーコさんの言葉を読んでスーッと疑問が晴れたんですね。
見せるだけで終わりじゃないんだ、一見一方方向の情報発信だけれども実は双方向のコミュニケーションなんだと。独りじゃないんだと。

ヨーコさんの作品も実際に受け手の想像力を刺激するものがメインであり、自分の作品をポンと見せて「どうだすごいだろう」みたいなものはほとんどないんですね。あくまで主体は受け手にあるのです。写真ではどうしても撮影者の主観が前面に出やすいですからヨーコさんの手法をそのまま使うのは難しいのですが、受け手を強く意識する考え方は非常に参考になりました。

いらだちや嫉妬のようなものは正直あまり感じておりません。ただ、もったいないなと思うのです。モニターや印画紙を通した先には見てくれる人がいるということを意識すれば、作品がもっともっと洗練されて素晴らしくなるんじゃないかなと思うのです。

ちなみに、「努力=善」という概念はわたしは持っていません。どちらかというと結果至上主義です。努力しなくても良いものが得られればそれに越したことはないと思いますし、実際そうなりたいものだといつも思っております。
マイクロフォーサーズを使うのは、ピント合わせなどに余計な努力をしなくても済むので構図や露出などに集中できるからです。
良い写真に必要なのは努力というよりは情熱や信念のようなものだと思っています。

わたしの正義というものがあるかどうかはわかりませんが、仮にそういうものがあったとしても、そんなちっぽけなものは他の方にとってはどうでもいいつまらないものだろうと思います。

コメントしにくいであろう記事にコメントをしていただいて、本当にありがとうございました。

leopard gecko #EBUSheBA | URL
04/08 15:21 | edit

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