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レオパルド・ゲッコーのお散歩写真

その辺の道ばたで撮ったお散歩マクロ写真など・・・

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蝉を愛でる。 

Cicada
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(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8 flash: Olympus FL-36R flash diffuser:Omni-Bounce)

まずはじめに、こういう写真が苦手な方には申し訳ありません。(と言っても、見てしまってからでは遅いかもしれませんが・・・(^^; )

マクロで撮って楽しい被写体はいろいろありますが、この時期では個人的には何と言ってもセミです。
マクロの醍醐味は肉眼では見えない細かいものがじっくりと見られること、そして肉眼ではなかなか気がつかない造形的な面白さを堪能できることですが、セミはまさにその両者をとことん味わうことができる最高の被写体なのです。個人的には「お散歩マクロ被写体の帝王」の称号をあげても良いくらいだと思っています。

まず第一に挙げたいのは額の単眼。ご覧のように、セミの額にはルビーのように赤く輝く小さな宝石が3つあります。これが実に美しくかわいらしい。肉眼では本当に小さな点にしか見えませんが、マクロで撮るとその色や形の美しさをじっくりと堪能することが出来ます。これだけのためでも苦労してセミに近づく価値はあります。

そして、全身に散りばめられた金色に輝く小さな毛。拡大してみるとこれがまた実に美しいのです。特にアブラゼミの漆黒とこげ茶のボディに金色はよく映えます。虫を拡大してみるとけっこう小さな毛があるものですが、中でもアブラゼミの毛の美しさは最高クラスだろうと思います。
背中の模様も格好良く、アブラゼミはがっしりとした甲冑武者のような趣がありますし、ミンミンゼミはまるで民族衣装かのような模様がなんとも言えず面白く美しいです。

おでこやボディだけでなく、前から見た顔も忘れてはいけません。ラジエーターのような模様の口が非常に格好良く、単なる模様ではなくて凹凸があるのです。この凹凸がセミの顔を撮る時の大きなポイントです。

マクロシューター泣かせなのは、このセミの造形的面白さを心ゆくまで撮るきるためには一つのアングルではとても不可能ということです。後ろから、前から、横から、斜め上から、斜め横から、あらゆるアングルで攻めなければセミマクロを十分に堪能したとは言えません。高いところにいるセミを下から見上げて撮っただけではセミの面白さの1/100も出せません。セミマクロで一番大変なのは、撮りたい角度に回りこめる位置にいるセミを見つけ出すことかもしれません。

他にはこれは写真には写らないのですが、じわじわと目の前まで近寄った時のセミの態度がまた面白いのです。
セミにもけっこう個性があって、ちょっと近づいただけですぐに飛んで逃げてしまうものや気にしないで鳴き続けるものもありますが、よく見かけるのがとりあえず鳴くのはやめてしばらくじっとした後にじわりじわりと横に歩き出すセミです。このゆっくり歩いて逃げようとしている(?)姿が実に可愛らしいのですね。ヨコバイというセミに近い仲間の虫は近づくと素早く横に歩いて逃げますが、セミの逃げ方は言うなればそれが非常にゆっくりしたバージョンで、のっしのっしと横に歩いて逃げるのです。
「せっかく気持良く鳴いているのにこんな目の前まで近づいたら気が散るじゃないか。やれやれ、もうちょっとあっちの方で鳴くか・・・」とでも言わんばかりによっこいしょよっこいしょと移動していくセミは、追いかけて写真を撮るよりはその動きを眺めていたほうが楽しいかもしれません。このように、マクロ撮影にはあえてシャッターを切らずにファインダーで眺め続ける楽しみもあります。

セミを愛好した芸術家に、「智恵子抄」などで有名な高村光太郎がいます。氏はよほどセミが好きだったらしくセミの造形の面白さについて書かれたエッセイがあるのですが、そこに綴られた彫刻家としてセミを見る視点は我々写真を撮る人間にとっても非常に面白く勉強になるものだろうと思います。
↓こちらがそのエッセイへのリンクになります。短くさらっと読めるものですので、少しお時間があるようでしたら読んでみてください。
蝉の美と造型

そのエッセイにも少し記述がありますが、古代ギリシア人もセミを愛でていたようです。セミを「歌い虫」と呼んだり、地中から出てきて羽化で真っ白に生まれ変わる様を見て復活や不死のシンボルとして考えたり。
はるか昔の遠く彼方に住んでいた人たちが同じようにセミを愛でていたということを知ると、何となく親近感を覚えてしまう今日この頃です。
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Posted on 2011/08/15 Mon. 12:09 [edit]

thread: 昆虫の写真

janre 写真

tag: ひとりごと  写真  自然 

写真と文章。 

Corn poppy
(camera: panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)

ここのブログは、毎回一枚の写真と文章がセットになっています。写真ブログなのだから写真と文章があるのは当たり前と言えば当たり前なのですが、今回は一見当たり前のように思える「写真に文章をつける是非」について考えてみたいと思います。

ごく率直に書きますと、わたしは本来は写真に文章をつけるのはあまり好きではありません。
文章があるとそちらに気を取られてしまったり、文章の内容によっては写真の印象が変わってしまうことすらあります。これは純粋な写真の鑑賞にとってはマイナスです。写真に限らず、例えば美術館で絵を見る時も画家のプロフィールや様々なエピソードの記述に目を取られてしまい、肝心の絵の鑑賞が疎かになってしまった経験をお持ちの人もおられるかと思います。

故に、わたしは写真を見て欲しい場合にはシンプルに写真のみを並べているFlickrかflickriverへのリンクを示すことが多いです(ちなみに、ここの写真は全てクリックすればFlickrに飛べるようにしています)。
このブログはどちらかというとわたしのひとりごと(=文章)がメインで、写真の方がむしろおまけと考えています。載せている写真自体はブログもFlickrも同じものですが、見せる主旨が違うということです。極論を書けばここには写真はなくても良いくらいなのですが、写真のない写真ブログというのも変ですから一応載せています。

ただし、文章が写真にとって絶対にマイナスかというとそうでもなく、例えば写真を撮った時のシチュエーションや狙いを文章で知ることによって味わいが深くなったりすることもあります。写真のコンテストなどで写真に一言添えることが多いですが、あれもそういう意図があるものでしょう。
文章によって写真の背景を知り、それにより鑑賞が深まる場合があるということです。

背景を知ることにより鑑賞が深まる例として、写真ではありませんが正岡子規の俳句を挙げてみたいと思います。有名なものなので皆さんすでにご存知かもしれませんが、子規の句に

 いくたびも 雪の深さを 尋ねけり

というものがあります。これだけ読んでも、語感の良さは伝わってきてもどういう状況なのかがよくわかりません。が、伝記などを読んで当時の子規の状況を知れば、何故彼がこの句を詠んだのかということがよくわかります。答えを書いてしまえば、これを詠んだ時の子規は結核に侵され結核菌に骨まで侵食されて病床に伏せていたのですが、これを知っているのと知らないのでは味わいがまったく違って感じられるだろうと思います。

背景が重要な意味を持つもう一つの例に、ジョン・レノンの「God」という曲を挙げてみます。この曲の終盤にレノンは「I don't believe in Beatles!(僕はビートルズを信じない!)」と叫ぶのですが、これもそれまでのジョン・レノンがビートルズと共に送ってきた極めて濃厚な人生を知らなければこの叫びの重さもわかりません。その重さを知っているリスナーであれば、この叫びの後のほんの僅かな静寂の時間が息が詰まるほどに重苦しく永遠に続くかのように感じられるのです。

そういった背景のある写真であれば、その背景を説明するための文章がセットになっていれば大いに意味があることでしょう。残念ながら、わたし自身はそのような写真は今までに一枚も撮ったことがありませんが・・・

Posted on 2011/08/08 Mon. 02:05 [edit]

thread: お散歩写真

janre 写真

tag: ひとりごと  写真 

ゆるきり。 

Woodsorrel
(camera: panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)

表題の「ゆるきり」という言葉は、キヤノンがPowerShot G7というハイエンドコンデジを開発するに当たって創りだした造語です。
キヤノンいわく、「大人のためのデジタルカメラでありながら、あまりがっちりとしたマニアック性ではなくどこかゆるいところがある感じ」とのことですが、実際にはもうちょっと深みのある概念のようです。

マイクロフォーサーズを使っているのになぜキヤノンの話題が出てくるかと言いますと、この言葉がお散歩写真を撮るにあたって非常に使える概念だからです。

PowerShot G7はそれ以前のいかにもハイエンドといった佇まいの大仰なデザインを大幅に見直し、削れるものは出来る限り削ってすっきりとしたデザインで出なおしたハイエンドコンデジでした。フラッグシップであることに過剰にこだわらずに、気軽に持ち歩ける、しかしある程度気合を入れて撮影することができるカメラとして作られたのです。これはマイクロフォーサーズに共通するものがあります。

そして、この「ゆるきり」という概念は撮影そのものにも流用することができます。ゆるゆるとした気持ちで持ち歩いて、撮る時はきりっと撮る。大きなカメラバッグやら三脚やらを持ち歩いていると、撮っている時以外でも常に撮影機材を意識しなければなりません。しかし、小さなシステムであれば、歩いている時はカメラの存在をほとんど意識しないでぶらぶらとして、「あ、撮りたいな」と思ったらカメラを握って撮影モードに気持ちをビシッと切り替えるという「ゆるきり」な撮り方ができるようになります。

「ゆるきり」の気持ちを持つことによって得られるもの。それは、例えば常に気持ちが撮影モードであれば目にも留まらないような足元のものにも気持ちがいくようになることでしょう。
何でも入る撮影バッグにフラッグシップクラスの一眼レフと大砲レンズを何本も詰め込んでがっしりした三脚をかついで「さあ撮りに行くぞ」という気合が入っている状態であれば、その辺の道ばたで雑草と言われるような草花を撮る気持ちにはなかなかなれません。でも、そうやって撮影スポットにいそいそと出かける人の足元では小さな可憐な花がひっそりと咲いているのです。

肩の力を抜いて小さなカメラをひょいと肩に引っ掛けてぶらぶら歩く。ふと目を足元に落とすと、コンクリートの割れ目に小さな花が咲いている。誰もそんなものに目も留めない。下手をすると踏まれてしまうかもしれない。踏んだことにすら気がつかない。でも、この小ぶりなカメラとレンズがあれば、「自分は独りここに頑張って咲いているんだ!」という花の気持ちを世界にむけて知らせてあげることができるかもしれない。
それがわたしが考える「ゆるきり写真術」です。

Posted on 2011/08/04 Thu. 12:13 [edit]

tag: ひとりごと  写真  マイクロフォーサーズ  ゆるきり 

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