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ブラックボックス。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
カメラの進歩とは何だろうと考えた場合、いろいろな見方があるだろうとは思いますが、一つの視点として「ブラックボックス」との戦いであったということが言えるかなと思います。
これはどういうことかと言いますと、昔のカメラはフィルムを現像してみるまで何が写っているのかわからない、そもそもちゃんと写っているかどうかすらよくわからない代物だったわけです。
素通しのファインダーで見てピントを目測で合わせて露出も勘で撮った場合は、ピントが合っているかどうかわかりませんし、出来た写真は真っ白だったり真っ黒だったりするかもしれません。枠だけのファインダーでは撮影範囲も正確ではありませんから、余計なものが写っていたり欲しいところが写っていないかもしれません。
ところがカメラは進歩して一眼レフという機構で撮影レンズを通した光景を見ることによってピントや被写界深度や撮影範囲をかなり正確に確認できるようになり、露出計を内蔵し自動露出機能を得て真っ白や真っ黒写真を撮ってしまうことはなくなりました。
このようにカメラは進歩するにつれて撮ってみなければわからないという部分、つまりブラックボックスの部分をどんどん減らしていきました。
特に一眼レフの機構は優れていて従来の機構が持っていたブラックボックス的な部分をかなり払拭はしましたが、一つ問題が残りました。内蔵露出計と自動露出機能で真っ黒や真っ白写真を撮ることはなくなったとしても、一眼レフの光学ファインダーでは写真がどのくらいの明るさで写るのかまではわからないということです。写真は絞りとシャッター速度の組み合わせによって明るく撮るのも暗く撮るのも自由ですが、光学ファインダーは明るいところでは明るく見えて暗いところでは暗くしか見えません。
写真とは必ずしも目で見えた通りに撮るばかりではなく、あくまで光を使った表現の一種だと考えれば、肉眼で見たままにしか見えない光学ファインダーは写真を撮るためのプレビュー機能としては不完全なものであると言えます。光学ファインダーで確認できるのは、適正露出からどのくらい離れているかという画面外での目安程度しかありません。目安だけで撮るという意味では、目測ピント機でピントを合わせるのと似たような状態とも言えるでしょう。
光学ファインダーにとっては、明るさに関してはブラックボックスのままなのです。
この問題を解決できる能力を持っているのが電子式ファインダー(EVF)、つまりミラーレスカメラのファインダーです。
EVFは写真が明るく写る設定にすれば明るくなりますし、暗くすれば暗くなります。これは特に輝度差が大きな場面や、意図的にどこかを明るくしたり暗くしたい時に有効なものです。
EVFにとっては、写真の明るさはもうブラックボックスではありません。写真を撮るにあたってのブラックボックスがまた一つ減ったのです。
ミラーレス時代のファインダーは、ピントや撮影範囲を合わせるためだけのものではなく、明るさを合わせるためのものでもあると言えるでしょう。ファインダーでピントや撮影範囲を合わせるのは当たり前のことですが、それらと同じ感覚でファインダーで明るさを合わせるのも当たり前という時代になるのでしょう。
カメラのデザイン。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
今回はお散歩マクロに最適なカメラのデザインはどういうものかについて考えてみたいと思います。
これまではカメラの中身、つまり機能や性能的にマイクロフォーサーズを始めとしたミラーレスカメラがお散歩カメラとしていかに優れているかについていろいろと書いてきましたが、今回はカメラの外側、デザインについて考えてみます。
お散歩マクロに有用なものとして、電子式ファインダー(EVF)とフル可動の背面モニター(いわゆるバリアングル式)がまず挙げられます。これらがお散歩マクロを撮るにあたっていかに便利なものであるかはこれまでの記事で何度か書いてきましたので詳しい説明は割愛しますが、この2つは搭載されているのが前提として話を進めます。
まずグリップの形状。ミラーレスは小型ではあってもレンズ交換式カメラですから、右手で持つ部分に関してはしっかりしたグリッピングや取り回しを考えるとコンデジのように完全に平らなものではなくてある程度の出っ張りはあった方が良いだろうと思います。では一眼レフのように大きなグリップであれば良いかというと、そうではないというのがわたしの考えです。ミラーレスカメラでは手持ちで背面モニターを使ったライブビュー撮影も得意分野なので、それを活かすためにはライブビュー撮影も視野に入れたグリップ形状が望ましいと思います。一眼レフのように大きなグリップでは手全体でグリップを握りこむことによって手首が固定されてしまい、せっかくアングルが自由になるライブビュー撮影のメリットを十分に活かせなくなってしまうのです。一眼レフではライブビューは必要ないと言う人がたくさんいますが、それはつまり一般的な一眼レフはライブビュー撮影を視野に入れてデザインされていないのでライブビュー撮影がやりにくいからです。ライブビュー撮影そのものが悪いわけではありません。
ファインダーと背面モニターの両方を使ったグリッピングを考えると、グリップはサイズが大きすぎず前に出っ張り過ぎない若干平べったい感じのものが理想だろうと思います。確実にグリップできることと、自由な角度でグリップできること。これは相反するものですから、そのバランスをいかに上手く取るかがポイントになってくるでしょう。
次にモードダイアルの位置。お散歩写真では気軽に撮ったり気合を入れて撮ったりと、状況に応じて写真に対する集中力が柔軟に変化します。その集中力の変化に応じてプログラムモードや絞り優先モードなどを簡単に切り替えられるようになっているのが望ましいです。撮っている最中にもここはきっちり追い込むべきだと気持ちが切り替わることもありますから、ダイアルの位置はグリッピングの形を大きく崩さずに簡単にモードを変えられる場所、つまり右手の親指を少し伸ばせば回せる場所にあることが望ましいと思います。
(コマンドダイアルはもっと重要ですが普通はコマンドダイアルが変な位置にあることはないのでここでは触れません)
そして各種ボタンの位置。お散歩マクロは撮影条件が厳しいことが多く、ISOやAFポイントなどを頻繁に微妙に操作する必要があります。ボタンが不規則に散らばって配置されていたり、カメラを構えたままでは指が届かない場所に配置されていたり、人間工学を無視しておかしな場所に一直線に配置されたりしていると、そういった微妙な操作に支障をきたします。構えを大きく崩さずに軽快に確実に操作出来る位置にボタンが配置されているかというのは重要なポイントです。
ミラーレスカメラはその構造上、精密な撮影が得意であり、撮影アングルの自由度が非常に高いという特徴があります。精密かつ自由であることは、お散歩マクロにおいて非常に強力な武器となります。これらのメリットを十分に活かすにはカメラの中身の性能を上げるだけでなくデザインでその機能性をアップさせるというアプローチも必要だろうと思います。
最近ミラーレスのデザインにおいて機能性よりも外観上のインパクトなどを優先させる傾向が一部に見受けられますが、今後ミラーレス市場が成熟してくればミラーレスとしての機能性を洗練させたデザインのボディももっと出てくるものと思われます。それはすなわち写真機として新しい方向への更なる進化を意味します。そうなれば、お散歩マクロのみならず写真の世界はさらに一歩前に進むことが出来るでしょう。
現実と虚構。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
何だか小難しいタイトルが続いて恐縮ですが、特に難しい話ではありません。
突然話が飛びますが、例えばSFものやファンタジーものの映画で、第1作が面白かったのに第2作以降がいまひとつだと感じることはないでしょうか。
これにはもちろんいろいろな理由があると思いますが、第2作以降はあまりにも虚構の世界に始めから浸かりすぎてしまうので主人公や世界観に今ひとつ感情移入できなくなってしまうというのも理由の一つに挙げられるのではないかと思います。
いきなり非現実的な話が炸裂してもたいていは視聴者がついていけませんから、第1作においてはまずは現実っぽい雰囲気から徐々に虚構の世界に連れて行くという手法をとるものが多いだろうと思います。が、第2作以降で同じことを繰り返すわけにもいきませんから第2作では第1作の後半で連れていった場所からさらに先に行かなければなりません。つまり現実世界から始めから離れてしまっているわけで、そこで置いて行かれたと無意識のうちに感じる視聴者もいるのではないかと想像します。
いかに虚構の物語であっても、深く感情移入するためにはそれなりに現実的なテイストは必要なのではないかと思います。
前置きが長くなりましたが、これを写真に置き換えて考えてみます。
写真の場合は逆に現実世界を切り取っているものが多いのですが、まさにリアルな日常的現実世界だけを切り取った写真、これはあまり面白いものではないでしょう。例えば朝ごはんに毎日納豆を食べている人が納豆を普通に正面からどどーんと撮った写真を見たとして、重度の納豆マニアでもなければその写真に衝撃を受けて感動するとはちょっと考えにくいです。
(余談ですが、チラシなどでよく見る広告写真などはさすがにプロの仕事ですごいものが多いですが、写真マニアならばともかく普通の人はそういうところで感動はしません)
逆に完全に現実世界から乖離している虚構的な写真というものを考えてみます。例えばマクロ写真でボケボケにぼかして何が写っているかすらよくわからないような写真。これは色合いなどを漠然としたイメージとして何となく楽しめることはあるでしょうけれど、それに心から感情移入するのはちょっと難しいでしょう。やはり何らかの現実世界とのつながりがあった方が作品世界に入り込みやすいだろうと思います。
写真は「真を写す」と書きますが必ずしも現実のみを写しているわけではなく、実際には上記のマクロ写真のように現実世界ではありえないものを写すことも簡単にできます。特にマクロ写真においては現実世界を写真に的確に反映することの方がかえって難しいくらいです。
つまり、写真においても現実と虚構の関係は存在するということが言えるだろうと思います。
上で挙げた映画だけでなくマンガや小説などにおいても現実と虚構をいかに上手く織り交ぜるかというのは創作における重要なテーマだと思われますが、写真においてもそれは例外ではないと思います。映画が脚本やCGなどで現実と虚構を巧みに織り交ぜるように、写真家は絞りとシャッター速度を操って現実と虚構を織り交ぜるのだと思います。そういった撮影テクニックの他にも、例えば被写体の選択も同じだと言えるでしょう。めずらしい物を撮るのは日常世界から意識を離すということです。それもまた一種の虚構であるとも言えるでしょう。
思いっきり現実的な写真を撮るのは簡単です。また、思いっきり虚構的な写真を撮るのも簡単です。難しいのは、その両者をほどよく織り交ぜ、バランスをどこで取るのかを見極めることでしょう。そのバランスをうまく取ることができた時、十分に感情移入できてなおかつ退屈ではない写真が得られるのだろうと思います。
「表現」とは何か。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
いきなり大上段なタイトルで恐縮ですが、哲学的な話や深遠な話をしたいわけではなくて、意味がわかりきった言葉のように思える「表現」というものをちょっと考えてみたいという話です。
写真における表現とは何でしょうか。
ファインダーを通して自分で感じたもの、つまり自分の内面を写真にして外に出すことであるとは言えるでしょう。では、それを外に出せればそれで終わりなのでしょうか。
この問に対する答えは、ジョン・レノンの奥さんとしても知られる前衛芸術家のオノ・ヨーコさんのQ&Aがとてもわかりやすいので引用させていただきます。
Q「今までの芸術活動において、人に認められたいと思ったことはありますか?」
A「芸術家にとっては、自分の作品が人と話す「言葉」なのです。だから、作品で何か言っても聴いてくれる人がいなければ、よく駅なんかで立って、独り言を言っている人と同じになります。ヨーコ」
つまり、写真で言うならば、撮ったものをただポンポンと並べた見せっ放しではダメということですね。それではヨーコさんのおっしゃるように、駅でブツブツ独り言を言っている人と同じ事でしょう。どうやったら自分の感動を人と分かち合うことができるのかということを考えて、自分の作品を主観的なだけでなく客観的にも見て練り上げた上で出すのが表現者としての努めと言えるのではないかと思います。
これは写真だけでなく、ブログやTwitterなどでも同じ事だろうと思います。自分の言いたいことしか言わないのであればそれはどこまでいっても単なる独り言であって、表現とは呼べないでしょう。表現、つまり表に現す以上は、現す相手というものがあるわけです。その相手を無視するのであればわざわざ表に現す意味がありませんから、駅まで行ってブツブツ独り言を言うのではなくて自分の部屋でブツブツ言っていれば良いわけです。表現とは表現者の思いを一方的に垂れ流すのではなく、一種のコミュニケーションであるべきだろうと思います。
これはプロならば当たり前のことでしょうが、アマチュアであってもやはり同じことだろうと思います。
自分の部屋でブツブツ言うのではなくて外の世界に出るのであれば、表現者ということではプロもアマも同じ土俵に立っているわけです。自分の部屋でブツブツ言っているようなことを人にも聞いてもらいたいというのは少々虫が良すぎるのではないかなと。外に向かって何かを言いたいのであれば、「表現者」であるための最低限の努力はするべきだろうと思います。
写真においてその努力はどういうものかと考えれば、自分が感じた感動などをどうやったら人と共有出来るのかを考慮に入れることだろうと思います。どこに感動したのかということを自分の中で整理して、そのポイントを端的に的確につかむこと。つかんだものを過不足なく写真としての形にすること。
それがきっちりできれば、「表現」としての良い写真が得られるのだろうと思います。
OLYMPUS OM-D E-M5について思うこと。
久しぶりの記事です。
わたしの主な被写体はその辺で出会った生き物であるため、この時期はお散歩写真愛好家としては生き物たちと一緒に冬眠しております。春になったらどうしようかなと想像を巡らすのがこの季節での写真関係の唯一の楽しみなのですが、今回ようやくオリンパスから待望のEVF内蔵マイクロフォーサーズ機が発表されたので思うところをつらつらと書いてみます。
以下、あくまでわたしの視点から見たE-M5評です。
<良さそうなところ>
・5軸手ブレ補正
これは撮影のほとんどが手持ちマクロであるわたしにとっては非常に魅力的な機能。理屈はよくわかりませんがどうやらマクロ領域でも効果がある方式のようです。レンズ交換式カメラとしては世界初の機能であるようで、どれほどの効果があるものか想像もできませんが期待は出来そうです。
・防塵防滴
悪天候で撮ることはあまりないのですが、雨が降っても撮影を諦める必要がないということは撮影チャンスが増えるということですから悪い話ではありません。
・センサーの性能
これはまだ確定ではありませんが、ネット上でぼちぼち出始めた画像を見ると高感度画質は良さそうです。若干絞ってマクロ撮影をすることが多いので、ISO800あたりが常用できれば撮影の幅が広がります。
・コマンドダイアルが前後のツインダイアルになった
E-P1を見た時の衝撃の一つが、背面に2つコマンドダイアルがあることでした。このカメラをデザインした人はマニュアル撮影をしたことがないのだろうかとすら思いました。それがようやく前後ダイアルになったので一安心です。
・バッテリーグリップの仕様が面白い
個人的にはバッテリーグリップの必要性はあまりないのですが、縦位置グリップの部分を取り外して単なる外付けグリップとして使えるところがアイデア賞ものだと思いました。E-P2まではグリップのデザインを真面目にやるつもりがあるのか疑問に感じていたのですが、E-P3からはグリップも重視されてきたようなのでこれも一安心です。また、本体のグリップ形状に関しても、ミラーレスカメラではファインダーを見ながら構える時はしっかりグリップできてライブビュー撮影の時はある程度手首が柔らかく使えるものが理想ですが、画像で見るかぎりは控えめながらも悪いものではなさそうです。
・各種ボタンがシンプルにまとまっている
大手メーカーの一眼レフであってもボタンがただ単に縦に並べてあるだけとかあちこちにボタンが散らばってしまって何が何やらわからなくなっているものも多いのですが、E-M5のボタンは非常にシンプルかつまとまって配置されているところに好感が持てます。手持ちマクロ撮影はぎりぎりのところで微妙な操作が必要になることも多いので、指の動きが必要最小限で済む配置のボタンはとても助かるのです。
・ファインダーと背面モニターの表示切り替えがアイセンサー式
パナソニックがDMC-G1で始めたこの方式は今では当たり前の機能となりつつありますが、これは非常に便利なものです。ファインダーから背面モニターにシームレスに移れるのはミラーレスカメラならではのメリットです。ちなみにDMC-G3にはその機能がないのですが、これはG3の最大の失敗だと考えています。
・マグネシウムボディ
この辺にはそれほどのこだわりはなくマグネシウムでもアルミパネルでもプラスチックでも木製でも良いのですが、どうせ使うなら金属製の方が多少は気分が良いかなと。
<イマイチだと思ったところ>
・背面モニターがバリアングルではない
これは今回最大の残念ポイントでした。縦位置でローアングルやハイアングルを多用するわたしにとってはバリアングルモニターでないのは致命的と言ってもよいダメージです。これがためにE-M5の購入を断念するかどうかというところです。オリンパスはフォーサーズではバリアングルを採用してきたのでm4/3でも採用すると信じて疑っていなかったわたしにとっては大きな衝撃でした。
・デザインが何故OM?
ノスタルジーにはあまり興味がないわたしにとっては外観上のOMの復刻というのは今ひとつ心に響きません。OMシリーズは一眼レフの中では格好良いカメラだとは思いますが、それを2012年になって復刻する意義も感じられません。決してOMの見た目が嫌いなわけではないので悪いことではないのですが、どうも今回のE-M5は見た目をOMっぽくするためにデザイン上いくつか犠牲になってしまったポイントがあるように思われます。
例えばファインダーとホットシュー周りがミラーレス機としてはかなり上に出っ張ってしまいましたが、これはOMをイメージしたためにこのくらい出っ張っても構わないんじゃないかという判断だったのではないでしょうか。また、背面モニターがバリアングルではないのはパカンと開くモニターがOMの外観にそぐわないと判断されたのではないでしょうか。だとすれば、わたしにとってはデザインの基調がOMであるのはむしろデメリットです。
・モードダイアルが背面から見て左側にある
右側にあればカメラを構えたままで右手の親指で操作できますが、左側にあるとダイアルを操作するだけのためにどちらかの手をいったん離さなければなりません。何かの操作のために構えを崩さなければならないというのはギリギリの撮影をしている時には非常に大きなデメリットとなります。これもE-P2まではモードダイアルの意義がよくわかっていないのではないかというデザインだったのがE-P3でようやく改善されたのに、また逆戻りしてしまいました。これは背面のコマンドダイアルを十字キーの位置に持ってくれば解決できる問題なので、次機種では普通の位置に持ってきて欲しいものです。
・ファインダー倍率が小さい
小さいとは言っても1.15倍とフォーサーズのフラッグシップであるE-5と同じなので十分だという見方もできますが、同じマイクロフォーサーズのDMC-GH2では1.42倍といわゆるフルサイズ一眼レフ並の大きさがあります。ファインダー部の体積が小さくても大きな視野を得られるのがミラーレスのメリットですから、EVF内蔵機ではそのメリットをフルに活かして欲しかったところです。
普通にスナップカメラとして見れば面白いカメラだと思いますが、わたしの用途だとどうしても厳しめに見ざるを得ません。画像やスペックを見ただけの段階ですが、現時点の感想では使えるか使いないか微妙なところかなと。
いろいろと書きましたが、後は実機が出るのを待って実物をいじり倒した上で購入するかどうかを改めて検討したいと思います。
わたしの主な被写体はその辺で出会った生き物であるため、この時期はお散歩写真愛好家としては生き物たちと一緒に冬眠しております。春になったらどうしようかなと想像を巡らすのがこの季節での写真関係の唯一の楽しみなのですが、今回ようやくオリンパスから待望のEVF内蔵マイクロフォーサーズ機が発表されたので思うところをつらつらと書いてみます。
以下、あくまでわたしの視点から見たE-M5評です。
<良さそうなところ>
・5軸手ブレ補正
これは撮影のほとんどが手持ちマクロであるわたしにとっては非常に魅力的な機能。理屈はよくわかりませんがどうやらマクロ領域でも効果がある方式のようです。レンズ交換式カメラとしては世界初の機能であるようで、どれほどの効果があるものか想像もできませんが期待は出来そうです。
・防塵防滴
悪天候で撮ることはあまりないのですが、雨が降っても撮影を諦める必要がないということは撮影チャンスが増えるということですから悪い話ではありません。
・センサーの性能
これはまだ確定ではありませんが、ネット上でぼちぼち出始めた画像を見ると高感度画質は良さそうです。若干絞ってマクロ撮影をすることが多いので、ISO800あたりが常用できれば撮影の幅が広がります。
・コマンドダイアルが前後のツインダイアルになった
E-P1を見た時の衝撃の一つが、背面に2つコマンドダイアルがあることでした。このカメラをデザインした人はマニュアル撮影をしたことがないのだろうかとすら思いました。それがようやく前後ダイアルになったので一安心です。
・バッテリーグリップの仕様が面白い
個人的にはバッテリーグリップの必要性はあまりないのですが、縦位置グリップの部分を取り外して単なる外付けグリップとして使えるところがアイデア賞ものだと思いました。E-P2まではグリップのデザインを真面目にやるつもりがあるのか疑問に感じていたのですが、E-P3からはグリップも重視されてきたようなのでこれも一安心です。また、本体のグリップ形状に関しても、ミラーレスカメラではファインダーを見ながら構える時はしっかりグリップできてライブビュー撮影の時はある程度手首が柔らかく使えるものが理想ですが、画像で見るかぎりは控えめながらも悪いものではなさそうです。
・各種ボタンがシンプルにまとまっている
大手メーカーの一眼レフであってもボタンがただ単に縦に並べてあるだけとかあちこちにボタンが散らばってしまって何が何やらわからなくなっているものも多いのですが、E-M5のボタンは非常にシンプルかつまとまって配置されているところに好感が持てます。手持ちマクロ撮影はぎりぎりのところで微妙な操作が必要になることも多いので、指の動きが必要最小限で済む配置のボタンはとても助かるのです。
・ファインダーと背面モニターの表示切り替えがアイセンサー式
パナソニックがDMC-G1で始めたこの方式は今では当たり前の機能となりつつありますが、これは非常に便利なものです。ファインダーから背面モニターにシームレスに移れるのはミラーレスカメラならではのメリットです。ちなみにDMC-G3にはその機能がないのですが、これはG3の最大の失敗だと考えています。
・マグネシウムボディ
この辺にはそれほどのこだわりはなくマグネシウムでもアルミパネルでもプラスチックでも木製でも良いのですが、どうせ使うなら金属製の方が多少は気分が良いかなと。
<イマイチだと思ったところ>
・背面モニターがバリアングルではない
これは今回最大の残念ポイントでした。縦位置でローアングルやハイアングルを多用するわたしにとってはバリアングルモニターでないのは致命的と言ってもよいダメージです。これがためにE-M5の購入を断念するかどうかというところです。オリンパスはフォーサーズではバリアングルを採用してきたのでm4/3でも採用すると信じて疑っていなかったわたしにとっては大きな衝撃でした。
・デザインが何故OM?
ノスタルジーにはあまり興味がないわたしにとっては外観上のOMの復刻というのは今ひとつ心に響きません。OMシリーズは一眼レフの中では格好良いカメラだとは思いますが、それを2012年になって復刻する意義も感じられません。決してOMの見た目が嫌いなわけではないので悪いことではないのですが、どうも今回のE-M5は見た目をOMっぽくするためにデザイン上いくつか犠牲になってしまったポイントがあるように思われます。
例えばファインダーとホットシュー周りがミラーレス機としてはかなり上に出っ張ってしまいましたが、これはOMをイメージしたためにこのくらい出っ張っても構わないんじゃないかという判断だったのではないでしょうか。また、背面モニターがバリアングルではないのはパカンと開くモニターがOMの外観にそぐわないと判断されたのではないでしょうか。だとすれば、わたしにとってはデザインの基調がOMであるのはむしろデメリットです。
・モードダイアルが背面から見て左側にある
右側にあればカメラを構えたままで右手の親指で操作できますが、左側にあるとダイアルを操作するだけのためにどちらかの手をいったん離さなければなりません。何かの操作のために構えを崩さなければならないというのはギリギリの撮影をしている時には非常に大きなデメリットとなります。これもE-P2まではモードダイアルの意義がよくわかっていないのではないかというデザインだったのがE-P3でようやく改善されたのに、また逆戻りしてしまいました。これは背面のコマンドダイアルを十字キーの位置に持ってくれば解決できる問題なので、次機種では普通の位置に持ってきて欲しいものです。
・ファインダー倍率が小さい
小さいとは言っても1.15倍とフォーサーズのフラッグシップであるE-5と同じなので十分だという見方もできますが、同じマイクロフォーサーズのDMC-GH2では1.42倍といわゆるフルサイズ一眼レフ並の大きさがあります。ファインダー部の体積が小さくても大きな視野を得られるのがミラーレスのメリットですから、EVF内蔵機ではそのメリットをフルに活かして欲しかったところです。
普通にスナップカメラとして見れば面白いカメラだと思いますが、わたしの用途だとどうしても厳しめに見ざるを得ません。画像やスペックを見ただけの段階ですが、現時点の感想では使えるか使いないか微妙なところかなと。
いろいろと書きましたが、後は実機が出るのを待って実物をいじり倒した上で購入するかどうかを改めて検討したいと思います。
めちゃくちゃすごいモノ。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
前回の記事を書いた時からずっとスティーブ・ジョブズ氏(以下、敬称略)のことが頭から離れないのですが、せっかくなのでジョブズとマイクロフォーサーズを半ば無理やり関連付けて考えてみたいと思います。ついでにわたしの好きな(ジョブズも好きだった)ビートルズも絡めて考えてみます。
マイクロフォーサーズ、スティーブ・ジョブズ、ビートルズ、この3者はそれぞれまったく別のものに見えますが、共通しているのはそれぞれの分野で強烈なイノベーターであるということです。ジョブズは「人々は自分の欲しいものが何なのか見せるまでわからないものだ」と言っていましたが、こういう姿勢がイノベーターには共通しています。
ビートルズ以前には彼らが作ったような音楽は存在しませんでしたし、そういう音楽が聴きたいと思っていた人はおそらく皆無だったでしょう。彼らが"A Day In The Life"という曲を創り上げた時、それを聴いた金儲けしか考えていなかったレコード会社の社長が椅子から立ち上がれなかったという話があります。あらゆる音楽を耳にしていたであろうレコード会社の社長すら圧倒するほどの衝撃的な曲だったのです。
また、AppleがMacintoshを出すまでは、GUIで操作するオールインワンのパーソナルコンピューターというものを想像する人は皆無だったでしょう。iPhoneが出るまでは、ほぼ完全にタッチパネルで操作する正面のボタンが一つしかない電話を想像する人もいなかったでしょう。
規模こそ違いますが、マイクロフォーサーズにも同じことが言えるのです。
マイクロフォーサーズが出てくる前も、デジタル一眼レフをもっと小型化するべきだとかレンズ交換式のコンデジを作るべきだという声はありました。が、DMC-G1のようなボディを想像していた人はおそらくいなかったと思います。わたしも初めてG1の発表を目にした時は、その真価がわからずにパナソニックはレンズ交換式のネオ一眼を作ったのだと思いました。何と馬鹿で無駄な事をしたのだろうと。
ところが、実物を手にしてわたしの印象は一変します。これは今までわたしが知っていたカメラとは全然違うものだと。信じられないほど高速なコントラストAF、見たこともない視野が大きく高精細なEVF、リアルタイム収差補正、どれも頭がクラクラするほどの衝撃でした。その後のレンズ展開も、7-14mmといった強烈な超広角ズーム、パンケーキレンズとしては驚異的な性能の20mm/F1.7など我が目を疑うような非常識的展開(もちろん褒め言葉です)。
それ以降各社がミラーレスに参入してきましたが、個人的にはそれらにはどうにもイノベーションを感じられないのです。
いかにもありがちな一眼レフに遠慮したサブ用途のボディや趣味性に走ったボディなど、その辺の人が普通に欲しがるであろうカメラばかりで、カメラシステムそのものを次のステージに持って行こうというような気概が感じられません。もちろん普通の人が普通に欲しがるカメラはあって良いですし現実的には必要なものでもありますが、ビートルズやジョブズの信奉者であるわたしにとってはどうにも物足りないと感じてしまうところもあるのです。ミラーレスはそれだけじゃダメなんだと。
イノベーションといっても何でもかんでも新しければ良いというものではありませんし、驚きがあれば良いというものでもありません。が、ミラーレスはカメラと写真の世界を更なる高みに持ちあげてくれるポテンシャルがある分野だとわたしは確信しています。
ビートルズやスティーブ・ジョブズは自分たちの分野で新しい世界を創り出し、結果的に世界を変えました。写真の世界も同じように次のステージに移るべき時期が来たと思っています。各カメラメーカーにはそういう気概を持ったカメラシステムを作って欲しいと願います。
ジョブズ逝く。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8 flash: Olympus FL-36R flash diffuser:Omni-Bounce)
今回の写真と本文は直接的関係はありませんが、本日Appleの前CEOかつ創業者であるスティーブ・ジョブズ氏がお亡くなりになったとの発表がありました。個人的には強烈なショックを受けました。Appleそしてジョブズ氏の在り方はわたしにとって非常に重要なロールモデルの一つだったからです。
わたしがMacintoshとAppleを初めて知ったのはいわゆる第一次パソコンブームの頃、パソコン雑誌を通してのものでしたが、当時の国産パソコンとはあまりにも違う独特のインターフェースは子供心にも強い印象を残し、長年の憧れの存在となりました。実際に実物を自分のものとして使えるようになったのは大学生になってからですが、Windows(当時は確か3.1)とは違う独特の理念や美学のようなものが感じられ、それ以降は少なくともプライベートなコンピューターはMac一筋となりました。
初期MacやMacの元となったLisaのエミュレータなどを通して、Appleの理念はMacのごく初期から現在に到るまで一貫していることを知りました。
わたしなりに理解しているAppleとジョブズの理念とは、構造的にはシンプルでありながらもユーザー体験を重視したものです。わたしが非常に強い影響を受けたのはその部分で、わたしが撮る写真にもその影響は色濃く現れています。
極力奇を衒わないシンプルな構成でありながらも、なおかつ印象的な写真。それがわたしが目指したものであり、その原点はAppleとジョブズにあると言っても過言ではありません。
MacやiPodやiPhoneのようにシンプルでありながらも強く深い訴求力を持つ商品が現実に存在するということは、わたしがそういう写真を目指すにあたって「それは本当に出来ることなんだ」という確信を持たせてくれる非常に強い支えとなりました。iPod touchを手にするたびに「わたしが撮っている写真はこれほどシンプルで美しいだろうか」と自省するための指標にもなりました。
ジョブズ逝去の報を目にして、わたしは若干途方に暮れています。はるかな高みにかすかに見えていた目標が突然になくなってしまった気持ちです。しかし、ジョブズは常にAppleのCEOであったわけではなく、彼は長年Appleを追放されていました。そして、ジョブズがいない時期のAppleも常にAppleらしい製品を作り出していました。これからのAppleがジョブズの遺志を継いだAppleで在り続ける限り、わたしの指標でもあり続けてくれると信じたいと思います。
スティーブ、今まで本当に本当にありがとう。あなたがいなければ今のわたしはありませんでした。
そして、安らかに・・・
シンプルライフ。

(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
シンプルな写真が好きです。
シンプルとは言っても、ただ単に構成が単純な写真という意味ではありません。言葉で説明するのは難しいのですが、あえて書くならば、次に挙げる見方がスッとできるような、すっきりとした鑑賞ができるわかりやすい写真です。
まず視点が一直線にピタリと吸い付けられる場所があって、そこから意識を周りに分散させていくときにも楽しめる仕掛けがあって、最後に全体像を眺めたときにバランスを楽しめる写真。全体のバランスは安定していれば良いのではなくて、時にはどっしりと安定し、時には流れ、躍動する。テーマに沿ったバランスを持った写真。
そういった鑑賞の流れがスムーズで一貫していて、なおかつ起承転結のある写真。
スムーズでありながらも見た後に何かが心のなかに残る写真。
一点から全体に到るまで気持ちが入っていて、それが素直に伝わってくる写真。
変な喩えですが、壁も床も全部白木でできた何もない部屋の真ん中にぽつんと抜き身の日本刀が置いてあるような写真。シンプルであるがゆえに余計なものに邪魔をされず、その部屋の木の香り、木目の肌触り、足元のきしみ、刀の肌の冷たさ、刃文の流れ、研ぎ澄まされた空気の中の緊張感、そういうものがダイレクトに伝わってくる、そんな感じの写真。
そういう写真を見たいと思いますし、できるならば撮りたいと願います。
蝉を愛でる。

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(camera: Panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8 flash: Olympus FL-36R flash diffuser:Omni-Bounce)
まずはじめに、こういう写真が苦手な方には申し訳ありません。(と言っても、見てしまってからでは遅いかもしれませんが・・・(^^; )
マクロで撮って楽しい被写体はいろいろありますが、この時期では個人的には何と言ってもセミです。
マクロの醍醐味は肉眼では見えない細かいものがじっくりと見られること、そして肉眼ではなかなか気がつかない造形的な面白さを堪能できることですが、セミはまさにその両者をとことん味わうことができる最高の被写体なのです。個人的には「お散歩マクロ被写体の帝王」の称号をあげても良いくらいだと思っています。
まず第一に挙げたいのは額の単眼。ご覧のように、セミの額にはルビーのように赤く輝く小さな宝石が3つあります。これが実に美しくかわいらしい。肉眼では本当に小さな点にしか見えませんが、マクロで撮るとその色や形の美しさをじっくりと堪能することが出来ます。これだけのためでも苦労してセミに近づく価値はあります。
そして、全身に散りばめられた金色に輝く小さな毛。拡大してみるとこれがまた実に美しいのです。特にアブラゼミの漆黒とこげ茶のボディに金色はよく映えます。虫を拡大してみるとけっこう小さな毛があるものですが、中でもアブラゼミの毛の美しさは最高クラスだろうと思います。
背中の模様も格好良く、アブラゼミはがっしりとした甲冑武者のような趣がありますし、ミンミンゼミはまるで民族衣装かのような模様がなんとも言えず面白く美しいです。
おでこやボディだけでなく、前から見た顔も忘れてはいけません。ラジエーターのような模様の口が非常に格好良く、単なる模様ではなくて凹凸があるのです。この凹凸がセミの顔を撮る時の大きなポイントです。
マクロシューター泣かせなのは、このセミの造形的面白さを心ゆくまで撮るきるためには一つのアングルではとても不可能ということです。後ろから、前から、横から、斜め上から、斜め横から、あらゆるアングルで攻めなければセミマクロを十分に堪能したとは言えません。高いところにいるセミを下から見上げて撮っただけではセミの面白さの1/100も出せません。セミマクロで一番大変なのは、撮りたい角度に回りこめる位置にいるセミを見つけ出すことかもしれません。
他にはこれは写真には写らないのですが、じわじわと目の前まで近寄った時のセミの態度がまた面白いのです。
セミにもけっこう個性があって、ちょっと近づいただけですぐに飛んで逃げてしまうものや気にしないで鳴き続けるものもありますが、よく見かけるのがとりあえず鳴くのはやめてしばらくじっとした後にじわりじわりと横に歩き出すセミです。このゆっくり歩いて逃げようとしている(?)姿が実に可愛らしいのですね。ヨコバイというセミに近い仲間の虫は近づくと素早く横に歩いて逃げますが、セミの逃げ方は言うなればそれが非常にゆっくりしたバージョンで、のっしのっしと横に歩いて逃げるのです。
「せっかく気持良く鳴いているのにこんな目の前まで近づいたら気が散るじゃないか。やれやれ、もうちょっとあっちの方で鳴くか・・・」とでも言わんばかりによっこいしょよっこいしょと移動していくセミは、追いかけて写真を撮るよりはその動きを眺めていたほうが楽しいかもしれません。このように、マクロ撮影にはあえてシャッターを切らずにファインダーで眺め続ける楽しみもあります。
セミを愛好した芸術家に、「智恵子抄」などで有名な高村光太郎がいます。氏はよほどセミが好きだったらしくセミの造形の面白さについて書かれたエッセイがあるのですが、そこに綴られた彫刻家としてセミを見る視点は我々写真を撮る人間にとっても非常に面白く勉強になるものだろうと思います。
↓こちらがそのエッセイへのリンクになります。短くさらっと読めるものですので、少しお時間があるようでしたら読んでみてください。
蝉の美と造型
そのエッセイにも少し記述がありますが、古代ギリシア人もセミを愛でていたようです。セミを「歌い虫」と呼んだり、地中から出てきて羽化で真っ白に生まれ変わる様を見て復活や不死のシンボルとして考えたり。
はるか昔の遠く彼方に住んでいた人たちが同じようにセミを愛でていたということを知ると、何となく親近感を覚えてしまう今日この頃です。
写真と文章。

(camera: panasonic LUMIX DMC-G1 lens:LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8)
ここのブログは、毎回一枚の写真と文章がセットになっています。写真ブログなのだから写真と文章があるのは当たり前と言えば当たり前なのですが、今回は一見当たり前のように思える「写真に文章をつける是非」について考えてみたいと思います。
ごく率直に書きますと、わたしは本来は写真に文章をつけるのはあまり好きではありません。
文章があるとそちらに気を取られてしまったり、文章の内容によっては写真の印象が変わってしまうことすらあります。これは純粋な写真の鑑賞にとってはマイナスです。写真に限らず、例えば美術館で絵を見る時も画家のプロフィールや様々なエピソードの記述に目を取られてしまい、肝心の絵の鑑賞が疎かになってしまった経験をお持ちの人もおられるかと思います。
故に、わたしは写真を見て欲しい場合にはシンプルに写真のみを並べているFlickrかflickriverへのリンクを示すことが多いです(ちなみに、ここの写真は全てクリックすればFlickrに飛べるようにしています)。
このブログはどちらかというとわたしのひとりごと(=文章)がメインで、写真の方がむしろおまけと考えています。載せている写真自体はブログもFlickrも同じものですが、見せる主旨が違うということです。極論を書けばここには写真はなくても良いくらいなのですが、写真のない写真ブログというのも変ですから一応載せています。
ただし、文章が写真にとって絶対にマイナスかというとそうでもなく、例えば写真を撮った時のシチュエーションや狙いを文章で知ることによって味わいが深くなったりすることもあります。写真のコンテストなどで写真に一言添えることが多いですが、あれもそういう意図があるものでしょう。
文章によって写真の背景を知り、それにより鑑賞が深まる場合があるということです。
背景を知ることにより鑑賞が深まる例として、写真ではありませんが正岡子規の俳句を挙げてみたいと思います。有名なものなので皆さんすでにご存知かもしれませんが、子規の句に
いくたびも 雪の深さを 尋ねけり
というものがあります。これだけ読んでも、語感の良さは伝わってきてもどういう状況なのかがよくわかりません。が、伝記などを読んで当時の子規の状況を知れば、何故彼がこの句を詠んだのかということがよくわかります。答えを書いてしまえば、これを詠んだ時の子規は結核に侵され結核菌に骨まで侵食されて病床に伏せていたのですが、これを知っているのと知らないのでは味わいがまったく違って感じられるだろうと思います。
背景が重要な意味を持つもう一つの例に、ジョン・レノンの「God」という曲を挙げてみます。この曲の終盤にレノンは「I don't believe in Beatles!(僕はビートルズを信じない!)」と叫ぶのですが、これもそれまでのジョン・レノンがビートルズと共に送ってきた極めて濃厚な人生を知らなければこの叫びの重さもわかりません。その重さを知っているリスナーであれば、この叫びの後のほんの僅かな静寂の時間が息が詰まるほどに重苦しく永遠に続くかのように感じられるのです。
そういった背景のある写真であれば、その背景を説明するための文章がセットになっていれば大いに意味があることでしょう。残念ながら、わたし自身はそのような写真は今までに一枚も撮ったことがありませんが・・・






